●船の歴史 日本編 江戸時代
前回に引き続き、日本における船の歴史を
ご紹介していきたいと思います。
今回は徳川幕府の江戸時代です。
江戸時代はなにかと時代劇などの舞台になりやすく、
なにかと皆さんに馴染み深い時代ではないでしょうか。
そんな江戸時代に船はどのようにして使われ、
そしてどのように発展していったのか?
今回も紐解いていきましょう!
☆船の歴史 江戸時代
江戸時代初期の1635年には「大船建造禁止令」が施行され、
日本における造船技術と海運産業は以後220年余りに渡って
近海輸送に限定されることになった。
江戸時代の中期には軍船は無用のものとなり、民間商船である
菱垣廻船や樽廻船、北前船が用いられた。
鎖国以前には徳川家康の命によって三浦按針が建造した2隻の
小型ガレオン[3]や、慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号
などの例がある。
日本国内での海運は大船建造禁止令によって船の大きさが制限され、
比較的小型の木造帆船によって日本沿岸の各地を結んだ航路が
維持されていた。太平洋側の江戸⇔大阪の「菱垣廻船」と「樽廻船」、
大阪から瀬戸内海を経由して日本海側を通り北海道までの広い沿岸
地域を結んだ「北前船」(きたまえぶね)等が主な船であった。
当時これらの船は「弁才船」と呼ばれ、貨物積高300~1,500石
(約45~225トン)程度のものが建造されていた。
ペリー来航から3ヶ月後の1853年9月に大船建造禁止令が
大名に対して解除さた。同時に幕府の手で浦賀造船所の建設が開始され、
翌年には最初の西洋式軍艦の木造帆船「鳳凰丸」を竣工した。
水戸藩も1853年に江戸隅田川河口に石川島造船所の建設を始め、
薩摩藩の桜島造船所や加賀藩の七尾造船所が次々と開設された。
1854年、ペリー来航の翌年に通商を求めて日本に来たロシアの
ディアナ号が下田で安政東海地震の津波により大破の後、
嵐に遭い沈没、多くの船員が日本に取り残された。
当時、日本では外航に耐える船を持たず、これらのロシア船員は
船を作らなければ帰れなかったため、君沢郡戸田村(現・沼津市)の
日本人を指導して2本マストのスクーナー「ヘダ号」を作り上げた。
これが最初の日本船であり、今日の日本造船業にとって近代船建造の礎となった。
1855年、幕府はオランダ人技師から大船建造と鋳砲製造の技術
を習得することを目的に、「海軍伝習所」を長崎に開設した。
幕府は1857年には長崎の飽の浦に溶鉄所の建設を開始し、
1861年に長崎製鉄所(現三菱重工長崎造船所)として開所させた。
1865年には横須賀・横浜製鉄所が着工され、その後、国内最大の
横須賀海軍工廠となった。横須賀海軍工廠ではフランス人技師の指導
を受けて木造船から鉄鋼船へ技術の切り替えが行なわれ1890年に
最初の全鋼鉄軍艦「八重山」(常備排水量1,609トン)が完成した。
江戸湾に設けられた石川島造船所はその後の石川島播磨重工の、
浦賀造船所は浦賀重工業を経て住友重機械工業の礎となった。
※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』抜粋
いかがですか?
この江戸時代に日本の船の歴史は大きく動いています。
海外の造船技術を吸収し、発展していったんですね!
しかも、それは外国人の造船職人がたまたま事故に会い、
日本国内で造船しなければならなかったというから驚きです。
それまでの日本の造船技術では、なかなか海外渡航を
するのは容易ではなかったのですが、この頃の技術進歩
により、海外貿易も行えるような船になったとの事です。
次回もまだまだ日本の船の歴史、続きます!